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朝鮮の王様が消えてしまった日・2

最後の朝鮮王、李垠(りぎん)は1970年に日本で死去します。
しかし彼には直系の子孫がおりました。
それが李玖(りく)。李垠の次男です。

●李玖

李垠の第一子、李晋(りしん)は、1921年に出生。
日本の皇族と朝鮮の王族との間に生まれ、
「日鮮融合」の象徴として注目を浴びた赤ちゃんでした。

しかし生後8ヶ月の時、両親が先の朝鮮王、純宗に会わせるため、
朝鮮に連れて行ったところ、滞在先で急死してしまいます。
突然の下痢、嘔吐からあっという間に衰弱死したので、
誰かが毒殺したのでは、という疑惑が持たれました。

1922年5月9日の読売新聞は
「信じられぬ怪しい噂が晋殿下の御病気に絡る」
という見出しでこの疑惑を伝えています。
「怪しい噂」とは毒殺疑惑のことですね。

それから9年後の1931年。
東京赤坂見附、後に赤坂プリンスホテル旧館となった李王邸で、
第二子である李玖が出生します。
長男が夭折してしまった李家は、ようやく当主を得たのです。
李玖は父親の李垠と同様に、日本の学習院で教育を受けました。

1945年、李玖、14歳の時。日本は敗戦します。
李垠も李玖も、日本の王公族の地位を失います。
しかし韓国大統領李承晩は、
朝鮮王制を復活させないために、王家の財産を没収し、
韓国への帰国も許しませんでした。
朝鮮の王族は、同胞によって日本に「捨てられた」のです。

そこで李玖は、米国に新天地を求めます。
日本占領軍のマッカーサー司令官の援助により、
米国のマサチューセッツ工科大学に留学して建築を学び、
1958年、ヨーロッパ系米国人女性と結婚して米国に帰化します。

やがて韓国では李承晩が失脚し、代わって朴正煕が大統領に。
この朴大統領の助けを受けて、1963年、李玖は病床の父親、母親、
夫人とともに韓国に帰国することができたのです。

李玖はソウルにある李氏朝鮮の宮殿、昌徳宮に住み、
ソウル大学校と延世大学校で建築設計学を講義する傍ら、実業家になります。
王族の末裔として宮殿に住み、本人は学者であり実業家。
この頃が朝鮮族最後の皇太子、李玖の生涯の頂点でした。

李玖は1996年、李氏朝鮮の末裔たちが創設し、
李王家継承者の決定と、宗廟祭礼祭を行う社団法人、
「全州李氏大同宗約院」の総裁となり、同時に韓国へ永住帰国します。

李玖は総裁として実務を行い、宗廟で開かれる大祭も主管しましたが、
「私はもはや、王家と関係がない、個人、李玖に過ぎない」と常に語っていたようです。
また子供に恵まれなかったため、同年、養女ユジニアを迎えました。

翌年の1970年、父親李垠が死去。77年に夫人と別居。
そして経営していた新韓航空が79年に倒産します。

追い詰められた李玖は「金を工面しに行く」と言い残して、
単身また日本に舞い戻り、東京渋谷の小さなマンションで暮らします。
生活費は同族会からの援助でしたが、やがて送金が停止されます。

すべての家族と財産を失い、困窮した李玖は、ようやく知人の援助を受け、
2005年、かつての李王家邸であった赤坂プリンスホテルに宿泊します。
自分が生まれた家に、50年ぶりに戻ってきたのです。

しかし滞在わずか約1ヶ月の2005年7月16日、心臓麻痺で死亡します。
世話をしていた従姉妹がホテルの部屋を訪問して、遺体を発見したのです。
先に書きましたように、李玖には子供ができませんでしたので、
李王垠とその妃方子女王の直系子孫は断絶してしまいました。

朝鮮日報はこのように伝えています。
「朝鮮最後の皇太子が寂しい死 東京のホテルで心臓麻痺で」

葬儀は7月24日、ソウルで行われました。
生前は冷遇された李玖でしたが、葬儀は豪華なもので、
李海瓚国務総理、兪弘濬文化財庁長官、国会議員など
多くの韓国政府要人が出席し、日本からも親族が駆けつけました。

この時をもって李氏朝鮮はついに滅びました。
かつての李氏朝鮮はエゲツない中世王朝でしたが、
日韓併合をへて、それは穏やかな王に変化していました。
李玖に至っては、日本人からも大いに慕われた皇太子でした。

歴史にもしもはありませんが、
もしも朝鮮がある時に、あるタイミングで、
日本のような穏やかな立憲君主制に移行できていたら・・・。
日本人が天皇陛下を慕うように、朝鮮人が朝鮮王を慕う、
きちんとした精神的支柱がある、まともな国家が出来ていたのかも、
と思わずにいられません。

参考資料
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9E%A0 他
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