朝鮮の王様が消えてしまった日・1
- 2017/04/11
- 19:17
かつて朝鮮半島には、李氏朝鮮という国家がありました。
李王家によって世襲される、中世の王朝国家です。
この国は500年以上も続き、国号を大韓帝国と改め、
1910年の日韓併合により消滅しました。
こう書きますと、まるで日本が韓国を併合することで、
朝鮮王を滅ぼしたみたいですが、事実は違います。
日本は朝鮮王を大変に尊重し、皇族に準じた扱いをし、
日本の皇族と婚姻させ、最後まで支援を惜しみませんでした。
日韓併合によりすべての朝鮮人は日本人となりました。
朝鮮の王も日本に居住し教育を受け、日本の軍人となり、
日本国民からも大いに慕われたのです。
李氏朝鮮の王はどんな経緯で消えたのでしょう?
その最後の姿を追ってみます。
●李垠
李垠(りぎん)は1897年、李氏朝鮮が大韓帝国と改称した年に生まれ、
先の朝鮮王、純宗(じゅんそう)が即位した時、大韓帝国皇太子になりました。
純宗には子供がおらず、また軽い知的障害があったために、
異母弟の李垠が皇太子になったのでした。
李垠は幼少期に日本政府の招きを受けて来日します。
当時の日本政府は、日韓併合による朝鮮半島の統治を検討していました。
李垠は日本で、学習院から陸軍中央幼年学校をへて、
陸軍士官学校で教育を受けました。
そして1910年の日韓併合により、大韓帝国は消滅。
李垠は日本の王族として、皇族に準じた待遇を受けることになります。
陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、順調に出世。
1920年には歩兵中尉となり、同じ年に「日鮮融合」のために、
日本の皇族の梨本宮守正王の第一王女・方子女王と結婚します。
この一事からだけでも、日本と朝鮮の併合は、
朝鮮族を大きく尊重したものだったと分かります。
併合でひとつになった日本と朝鮮の象徴として、
王族同士が婚姻関係となったのです。
植民地にして奴隷にするなら、
そんなことをするわけがありませんよね。
李垠はその後も軍の出世街道を驀進し、
やがて1926年、先の純宗の薨去にともなって、
李王家を承継して李王垠となります。
日本の皇族に準じた待遇を受けた李垠は、
1930年に赤坂見附に巨大な邸宅を構えます。
後に改装され、赤坂プリンスホテルの旧館となった大邸宅です。
李垠は赤坂見附の豪邸に住み、時には朝鮮の王として、
王妃と共に朝鮮を訪問したりしながら、日本の軍人として、
軍事参議官、中将にまで昇進します。
朝鮮の王として、日本で皇族に順した待遇を受け、
大邸宅を構え、軍人としてエリートコースを驀進。
この頃が朝鮮王の最後の栄光の時でした。
1945年、日本敗戦。
李垠の輝かしい生涯に暗雲が立ち込めます。
日本国憲法が施行され、王公族制度が廃止され、
彼は李王の身位を失ってしまったのです。
また皇籍離脱で日本国籍も失い、無国籍となります。
在日韓国人になってしまった李垠夫妻は、
祖国への帰国を試みますが、
当時の日本と大韓民国の間に国交はなく、
しかも戦後、韓国の大統領となった李承晩が、
李垠の帰国を受け入れませんでした。
朝鮮王族の分家出身だった李承晩は、
正式な朝鮮王が帰国すれば、
自分の地位が危なくなる、と考えたのです。
李垠は1957年に日本国籍を取得するも、
祖国への帰国を願い続けます。
やがて韓国では李承晩が失脚。
李垠と同じく日本の軍人であった朴正煕が大統領になります。
1962年、朴正煕の計らいで、すでに病床にあった
李垠の韓国籍はようやく回復しました。
翌年1963年、日韓国交正常化交渉がスタート。
李垠は夫婦揃って念願の帰国を果たしますが、
病は重く、空港からそのまま病院に運ばれて入院。
1970年、日本で華々しく万国博覧会が開催された年。
最後の朝鮮王、李垠は病院で結婚生活50周年の金婚式を行い、
その3日後、帰らぬ人となりました。
参考資料
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9E%A0 他
李王家によって世襲される、中世の王朝国家です。
この国は500年以上も続き、国号を大韓帝国と改め、
1910年の日韓併合により消滅しました。
こう書きますと、まるで日本が韓国を併合することで、
朝鮮王を滅ぼしたみたいですが、事実は違います。
日本は朝鮮王を大変に尊重し、皇族に準じた扱いをし、
日本の皇族と婚姻させ、最後まで支援を惜しみませんでした。
日韓併合によりすべての朝鮮人は日本人となりました。
朝鮮の王も日本に居住し教育を受け、日本の軍人となり、
日本国民からも大いに慕われたのです。
李氏朝鮮の王はどんな経緯で消えたのでしょう?
その最後の姿を追ってみます。
●李垠
李垠(りぎん)は1897年、李氏朝鮮が大韓帝国と改称した年に生まれ、
先の朝鮮王、純宗(じゅんそう)が即位した時、大韓帝国皇太子になりました。
純宗には子供がおらず、また軽い知的障害があったために、
異母弟の李垠が皇太子になったのでした。
李垠は幼少期に日本政府の招きを受けて来日します。
当時の日本政府は、日韓併合による朝鮮半島の統治を検討していました。
李垠は日本で、学習院から陸軍中央幼年学校をへて、
陸軍士官学校で教育を受けました。
そして1910年の日韓併合により、大韓帝国は消滅。
李垠は日本の王族として、皇族に準じた待遇を受けることになります。
陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、順調に出世。
1920年には歩兵中尉となり、同じ年に「日鮮融合」のために、
日本の皇族の梨本宮守正王の第一王女・方子女王と結婚します。
この一事からだけでも、日本と朝鮮の併合は、
朝鮮族を大きく尊重したものだったと分かります。
併合でひとつになった日本と朝鮮の象徴として、
王族同士が婚姻関係となったのです。
植民地にして奴隷にするなら、
そんなことをするわけがありませんよね。
李垠はその後も軍の出世街道を驀進し、
やがて1926年、先の純宗の薨去にともなって、
李王家を承継して李王垠となります。
日本の皇族に準じた待遇を受けた李垠は、
1930年に赤坂見附に巨大な邸宅を構えます。
後に改装され、赤坂プリンスホテルの旧館となった大邸宅です。
李垠は赤坂見附の豪邸に住み、時には朝鮮の王として、
王妃と共に朝鮮を訪問したりしながら、日本の軍人として、
軍事参議官、中将にまで昇進します。
朝鮮の王として、日本で皇族に順した待遇を受け、
大邸宅を構え、軍人としてエリートコースを驀進。
この頃が朝鮮王の最後の栄光の時でした。
1945年、日本敗戦。
李垠の輝かしい生涯に暗雲が立ち込めます。
日本国憲法が施行され、王公族制度が廃止され、
彼は李王の身位を失ってしまったのです。
また皇籍離脱で日本国籍も失い、無国籍となります。
在日韓国人になってしまった李垠夫妻は、
祖国への帰国を試みますが、
当時の日本と大韓民国の間に国交はなく、
しかも戦後、韓国の大統領となった李承晩が、
李垠の帰国を受け入れませんでした。
朝鮮王族の分家出身だった李承晩は、
正式な朝鮮王が帰国すれば、
自分の地位が危なくなる、と考えたのです。
李垠は1957年に日本国籍を取得するも、
祖国への帰国を願い続けます。
やがて韓国では李承晩が失脚。
李垠と同じく日本の軍人であった朴正煕が大統領になります。
1962年、朴正煕の計らいで、すでに病床にあった
李垠の韓国籍はようやく回復しました。
翌年1963年、日韓国交正常化交渉がスタート。
李垠は夫婦揃って念願の帰国を果たしますが、
病は重く、空港からそのまま病院に運ばれて入院。
1970年、日本で華々しく万国博覧会が開催された年。
最後の朝鮮王、李垠は病院で結婚生活50周年の金婚式を行い、
その3日後、帰らぬ人となりました。
参考資料
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9E%A0 他
- 関連記事
-
- 北朝鮮への奇妙な愛情
- 朝鮮の王様が消えてしまった日・2
- 朝鮮の王様が消えてしまった日・1
- 韓国難民はこの世にひとりも存在しない
- 見えない朝鮮戦争:北朝鮮が韓国を機能停止に!
スポンサーサイト